富士登山のミニ知識
富士登山の歴史
聖徳太子が空飛ぶ馬にのって登頂したという話があります。河口湖口に太子館という山小屋がありますが、その伝説に由来しています。平安時代の頃は、富士山は噴煙を上げていて、まさに命がけの登山だったようです。鎌倉時代、室町時代は、富士行人と呼ばれる一部の修験者の修行の地でした。その頃から登山道はいくつか開発されていたようです。このころには火口の中で熊に食われた人がいたらしい。
富士登山が盛んになったのは江戸時代に「富士講」が広まってからです。講ですから、何年も登山資金を積み立てて、やがて自分の順番がまわってくると先達と呼ばれるリーダーに従って登りました。滅多に登れませんからそれこそ一歩一歩大切に登ったそうです。しかし当時は女性は登ることが禁止されていました。ただ、60年に一度の庚申の年だけ八合目(*1)までの登山が許されました。女性が自由に登れるようになったのは明治に入ってからです。
(*1富嶽旅百景・青柳周一著による)
初めて登頂した外国人は、初代英国公使のラザフォード・オールコックです。彼の手記によると麓から8時間かけて登り、山頂に1泊。お湯を沸かしてコーヒーを飲み、ビスケットを楽しむ余裕。なお、彼の手記では、1707年の宝永火山噴火と同時に琵琶湖が出来たと記してあります。誰がそんなことを教えたのやら。
昭和39年4月に富士スバルラインが開通。同時に計画された山頂までの地下ケーブルカーは実現しませんでした。道路の開通によってそれまで登山のメインストリートだった吉田口が衰退していき、代わって河口湖口が富士登山の主流となります。昭和45年には富士宮口までの富士山スカイラインも開通。いよいよ富士登山の観光化が進んでいきます。しかし、昭和55年に吉田口の吉田大沢で12名が亡くなるという大落石事故が発生し、下山ルートが現在の位置に付け替えられました。その後は大規模な落石事故は少なくなったものの、体力不足による事故が増えています。
平成9年8月7日6時54分32秒1に山頂へ。
山と渓谷1998年8月号によると、落語家の春風亭柳昇師匠が仲間と連れだって、この時間に富士山測候所のある地点へ登山したそうです。さすが落語家、やることが粋ですな。なお、富士宮口側は協力してくれないので河口湖口側(吉田ルート)から登ったとか。
富士山を駆け上がる
当たり前のことですが、当時は麓から歩いていたわけです。それを考えただけで、もう気が遠くなります。ところが現在、走って頂上をめざそうという競技が行われていることを知って2度びっくり。それが
富士登山競走です。吉田口で実施されています。「競争」ではなく「競走」なのですね。優勝者は麓から頂上まで2時間半で完走?信じられません。御殿場口の富士登山駅伝は有名ですが、こちらもすごい。最近はテレビ中継がなくなって残念です。
夢のもぐらケーブルカー
富士山頂まで地下ケーブルカーを設置しようという計画があったそうです。本当に設置されていたら・・・、おそらく急激に上昇するため、多くの観光客が高山病になってしまい、たぶんケーブルカーの中はゲロだらけだったりして。ま、五合目までで十分ありがたいことです。
富士山頂は山梨県?静岡県?
いまのところ、どちらかに決まっているわけではありません。地図を見ても、西側は山頂の近くまで県境が延びていますが山頂部分には引かれていません。東側は小富士の取り合いになっていて、そこで県境が切れています。ただ、状況的には静岡県に分があります。山梨県側に面している吉田口、須走口山頂の山小屋は、実は、静岡県の山小屋。山小屋の電話番号の市外局番は静岡県だし、固定資産税も静岡県に支払っています。そもそも富士山の八合目以上は浅間大社の奥宮なのですが、その浅間大社は静岡県にあります。山頂郵便局は静岡県富士宮局の分局。富士山測候所も住所は富士宮市。とりあえず行政的には静岡県です。でも、登山客の多くは山梨県側の富士スバルライン五合目から登ってくるのです。まあ、このままで問題がないのなら、特に決めなくてもよろしいのでは。
「合目」とはなに?
山麓から頂上までの行程を十に区切り、その一つ、一つを「合目」と言います。スタート地点は一合目ではなく零合目となります(そう呼ぶことはないですけど)。この「合目」の由来ですが、諸説紛々。
(1)夜道の提灯に使う油が一合燃え尽きる道のりで区切った。
(2)米を少しずつばらまいて一合なくなる道のりで区切った。
(3)白米一升をこぼして作った小さな山の形が、富士山に似ているところから、それを十等分した。
などなど。常識的には(1)か(2)の説明でよろしいのでは。
他には、梵語の「劫」が転じたもの、など仏教的な由来とする説があります。なお、英語では、
station(ステーション)と言います。「駅」ですね。
一富士、二鷹、三なすび
初夢に、「一富士、二鷹、三なすび」を見ると縁起が良いと言われています。初夢とは、元日、または一月二日の夜に見る夢ですが、昔は、節分の夜から立春にかけて見る夢でした。有名なことわざですが、その語源はこれまた諸説紛々。
(1)駿河の名物を列記した。
(2)徳川家康が、駿河で一番高いのは、一に富士、二に愛鷹山。そして物価が高いのはなすびだ」と言ったという説。
(3)三大仇討ち。富士は曽我兄弟、鷹は大石蔵之助、なすびは渡辺数馬の家紋であるという説。
実は、「一富士、二鷹、三なすび」には「四扇、五煙草、六座頭」という続きがあります。座頭というのは指圧、マッサージの意味。これらも物価を示しているものと解釈できるので、(2)の説がいかにももっともらしいですが、これで「決定!」というものは今のところないようです。
電通富士登山
大手広告代理店の電通は毎年、社員参加の電通富士登山を須走ルートで実施しています。新入社員は参加が義務づけられています。入社希望者は覚悟しておきましょう。流行の最先端を担う企業がこういう伝統的なイベントを実施しているのは興味深いですね。
一合目からの焼き印?
昔は吉田口は登山道のメインルートでしたが、現在は衰退して途中の山小屋もほとんど営業を止めてしまっています。だからその間の焼き印は入手できません。ところが、その吉田口一合目から五合目までの焼き印がすでに押されている杖が売られています。売られている場所は「平井売店」。富士急行・河口湖駅前のロータリーの信号の横断歩道をわたったところのおみやげ屋。焼き印オールクリアにこだわる方は立ち寄ってみては。
2013年1月に平井売店のHPを見たら、金剛杖600円、五合目までの焼き印付きが700円でした。
すごい人たち
實川欣伸(じつかわよしのぶ)さん
75日間連続で1日2回登頂、54時間不眠で8回登頂など超人的な実績。
2010年10月 1000回
2013年8月 1500回
2014年3月 1619回
2014年7月16日 1673回
2016年8月25日 1869回
2017年7月7日 1921回
2018年6月23日 2000回
佐々木茂良さんは64歳で初登頂
2012年8月、通算1000回達成。
2016年3月13日現在 1361回
2017年8月8日「マツコの知らない世界」1403回と放送
都倉洋一さん 同番組で1233回
大貫金吾さん(元教員)は2005年10月に富士山登頂500回を達成。
増子春雄さん(元東芝山岳会々長)が1997年に、130カ月連続登頂を達成。
つまり10年間以上、冬でも毎月1回は富士山に登っていたということ。
強力の梶房吉さんは仕事とはいえ登頂回数1672回! 50年の強力生活で達成。絶句するしかない。強力(ごうりき)=登山のガイドをしたり、荷物を運びあげる人
五十嵐貞一さんが1988年8月8日、満101歳で登頂。すごい!
103歳とか105歳とか諸説ありますが、五十嵐さんは明治19年(1886年)9月21日生まれなので、登頂した時点では満101歳と10ヶ月です。数え年なら103歳。
五合園レストハウスにある五十嵐貞一翁の銅像