登山口について
広辞苑によると、登山口の「口」は、「そこから目的地などへ入っていくところ」とあります。つまりこの解釈でいうと、登山口というのは登山のスタート地点ということになります。途中の登山道は、「●●口登山道」と表記するべきなのでしょう。例えば、須走口から登れば須走口登山道というようにです。しかし実際はこの「登山道」の部分は省略されて呼ばれることが多いです。
河口湖口、吉田口
スバルラインの五合目は
河口湖口五合目であり、古い言い方ですと
船津口五合目となります。
精進口もここにつながっています。船津口登山道は今でも途中まで富士スバルラインと並行して続いています。「船津口登山道」と書かれた道路標識もあります。一方、
吉田口というのは、富士吉田市から金鳥居、浅間本宮神社、馬返しなどを経由して山麓から登ってくるルートです。吉田口を
富士吉田口と表記する事もあります。
河口湖口からの登山道は六合目で吉田口登山道に合流します。国土地理院の地形図でも吉田口登山道と表記されています。そのため、河口湖口から登っても吉田口と称する場合がありますが、私にはちょっと違和感があります。私は「吉田口」といえばやはり山麓からの登山道をイメージしてしまいますが、実際のところ、六合目からは吉田口登山道を登るわけですから、河口湖口から登る人も、この「吉田口」という呼び方も同時に覚えておかなければなりません。案内標識は「富士吉田口」と表記されていますので注意が必要です。
富士吉田市のHPでは、河口湖口から登った場合は
河口湖口登山道、下から登った場合は
吉田口登山道と併記しています。かつて須山口が後から途中に接続された御殿場口の隆盛で、一般的な呼び名が後者に移行した例もあり、圧倒的に入山者が多いのは河口湖口であるという現状から、河口湖口登山道に変えてしまっても良さそうなものですが、まだまだ吉田口という名称には歴史的にも重いものがあります。
それに、地図を見ると五合目のレストハウスの多くは富士河口湖町ですが、
古御岳神社の鳥居よりも登山道寄りのこみたけ売店からは富士吉田市なのです。つまり、吉田口登山道へ至る水平方向の道はすでに富士吉田市のエリアなので、なおさら河口湖口登山道に改名する可能性は低そうです。
河口湖口(船津口)は鎌倉時代からありました。
河口(現・富士河口湖町)には多くの宿坊があり賑わっていましたが、江戸時代の富士講の流行に伴って多くの人が吉田口を利用するようになったので河口は衰退。それが昭和39年の富士スバルライン開通によって形勢が約250年ぶりに一気に大逆転。そういう経緯です。いわば河口湖口と吉田口はライバル関係にあったわけですから、河口湖口の関係の方々は、吉田口とごっちゃにされるのは、あまり快く思っていないのかもしれませんが、しかし、河口湖口という名称をさほど積極的に流布させようという感じでもないようです。例えば、富士河口湖町関係のWebページでは
富士山五合目という表記が多い。むしろ河口湖口とは意識的に表記していないようです。もはや、富士スバルラインの五合目こそが富士山を代表する五合目である。ここ以外に富士山の五合目はない!と宣言しているようでもあります。
富士宮口
他に、
表口、
表富士宮口、
三島口、
大宮口などと呼ばれます。三島口というのはすなわち三島がスタート地点だったことがあるということでしょう。富士急行のバスはこのあたりを徹底していて、富士宮口新五合目へ行くバスであっても三島駅から出発するバスの時間表は、行き先を「三島口」と表記しています。
大宮というのは富士宮市の浅間大社のことです。昔は、大宮から村山という村を経由する
村山口という登山道が隆盛でしたが、その後、三合目まで馬でいけるルートが造られたため衰退して行きました。
須走口
他に、
東口。須走というのは「砂走り」の転訛したものだそうですが、別の意見として「直(まっすぐ)に走ることができる」という意味で「す・はしり」となったという説も。大陽館では
富士須走口と看板に表記してあります。
昔には、山中湖からお中道を経由して須走口に至る
山中口があったらしい。
御殿場口
もともとは
須山口という登山道がありましたが、明治初期に御殿場口登山道が須山口二合八勺に接続しました。ちょうど東海道線(今の御殿場線)が開通するので登山客が見込めるということと、明治になって富士山の通行権がそれまでの関係者の手を離れたことによります。その結果、御殿場口の隆盛とは裏腹に須山口は衰退していきました。現在は、須山口は水が塚から登るルートが再興されました。御殿場口とは双子山の向こう側で合流します。また、宝永火口にもつながっています。他に、山頂の到着地点、銀明水前を
銚子口という呼び名もあります。