■2007年8月13日(月) 須走口
山登りは、近くの太平山(1170m)に、高校3年生の時、学校の行事で登っ
たのが初めてでしたが、その時は普段の運動不足も祟り大変にきつかった記憶があ
ります。クラスメートが見るに見かねてザックを持って呉れたりしました。
その後は特に山登りをすることもなく、息子が小学生から中学生ぐらいの時まで
は、冬場は頻繁にスキー場に通った位でした。
家が秋田市なので、鳥海山へ初めて登ったのが、地区の体育協会の行事で、バス
でこの時も小学生の息子と行きました。この時は頂上まで登る計画でなく、途中の
鳥の海(海側の象潟からの鉾立登山口から2時間くらいのところ)までだったので
すが、勢いに任せてグループと一緒には行かず、どんどん先に行って、小屋で缶
ビールを買って、小屋前の石を積んだ塀の上に腰掛けて、登ってきた下界を眺めな
がら飲んだビールは、また格別のものでした。
それから、嵐の中を傘をさして同じく頂上までではないのですが、鳥海山に登っ
たこともありました。この時は山小屋でパンツ一丁になり、濡れた衣類を乾かしな
がら飲んだみそ汁の味も忘れられません。
そのあと、一度頂上まで行きたいものだと思い、その時は一人で行ったのです
が、もう少しで頂上というところで一歩進んでは休み、一段上がっては休憩し、の
繰り返しで大層辛かったことが思い出されます。結局この時は、膝も痛かった
し、一人でもあったので、岩の積み重なった本当の頂上(30年前に噴火した
2236mの所)へ登ることは止めました。
その後は、海側の方でなく山側の登山口(祓川からの矢島口と鳥海町からの百宅
口の2カ所)から頂上へは登りましたが、何事も慣れなもので、だんだんきつくな
くなってくるのは不思議なものです。もちろんその時の体調や睡眠時間が大いに影
響することは勿論です。
前置きが長くなってしまいましたが、前から富士山には一度登ってみたいと思っ
ておりまして、近くならすぐ行けるのでしょうが、旅行社が企画するバスで行くも
のや飛行機で行くものやらあるのですが、なかなか日程の調整がつかず今年に至っ
てしまったのです。
そこで、今年の5月末に、このホームページを拝見し、色々な方々の情報(駐車
場の問題や余裕を持った行程など)を参考に登り口は須走、5合目に一泊して早朝
出発とし、早速宿を予約しました。
幸い、息子が学生で日野市にいるのですが、白河以南は車で行ったことがない
し、息子のアパートまで辿り着くのも大変そうなので(カーナビも無いし)一度息
子に秋田まで帰って貰い、8月12日の日曜日に息子と一緒に秋田市を午前10時
頃に出発し、サービスエリア巡りをしながら、午後8時頃には日野市に着きまし
た。その日は息子のアパートに泊まり、翌日(8月13日)昼過ぎに中央高速で富
士山に向かいました。大月JCで河口湖方面に向かい、河口湖ICから東富士道路
に乗りました。
須走口インターを出たのは午後2時30分頃で、ふじあざみラインを上って行く
と、途中で車列となり前に進むことが出来ません。高速通行中は天気が良かったの
ですが(頂上は雲に隠れていましたが)、山に近づくと霧が深く寒く、甲子園では
雨が降っているとラジオが言っていて、明日の登山のことを考えると不安な気持ち
になってきました。駐車場が一杯で進めないのだろう、夕方近くになると帰る人も
増えて駐車場も空くのではと思い、Uターンして御殿場方面へ下りましたがさて行
くところもない、反対車線(山中湖方面へ向かう道路)は激しい渋滞です。暫く
行ってガソリンを入れてからまたUターンして戻ることにしました。渋滞の中をコ
ンビニに寄ってアイスクリームを食べたりしながら5合目に向かい、結局午後5時
半頃に駐車場に到着、幸い数台分の空きがあったので止めることが出来ました
が、ある程度の高さのある山はどこもそうですが、目の前にそびえる赤い富士には
目を見張り早速写真をとりました。あとで見ると逆光で赤富士は黒くなっていまし
たが。
荷物を持って宿に向かうと、山から次々に下りて来る人に、宿のおばあさんがコ
ンプレッサーで一生懸命ほこりを吹き飛ばしてあげていました。そう言えば下りは
砂走りとかがあるそうで、マスクをして帰って来る人もいます。中には大層辛そう
に足を引きずって下りてくる人もいます。
また、バス停で、次の帰りのバスを待っているロシア人母娘や、顔や襟足に濡れ
た紙を張り日焼けの処理をしながら地面に蹲ってバスを待っている人もいました。
次々に山から人が下りて来るので大層な賑わいです。宿の1階はお土産物を売っ
ているところと、食堂になっているところがあり、食堂の方は下りてきた人やらこ
れから登る人やらで一杯です。宿が二軒しかない所でこれ位の混雑なのですから吉
田口とかはもっとすごいのでしょう。
宿の主人に宿泊の手続きをし、二階の部屋に案内されると四人は優に寝られる部
屋です。テレビもあります。この部屋にお二人でどうぞと言われ待遇の良さに感激
しました。もっとあまり綺麗でない板敷きの所に雑魚寝かと思っていたせいで
す。次の日上に登ったら解ったのですが上の小屋は多分そんなものなのでしょう。
6時から下の食堂で夕食。車で移動しただけなので大してお腹も空いていなかっ
たのですが、生ビールを飲み乍らおでんやら鶏肉の卵とじやらの豪華な夕食をいた
だきました。宿の人はご飯のお代わりを催促しますがそうは食べれません。
まだ寝るのも早いし、宿の外にはうじゃうじゃと下りてきた人やらこれから登る
人がいます。通路を挟んだ宿の反対側には天井の付いた無料休憩所があるので、降
りてきた人もこれから登る人も椅子に座っています。これから登る人達は浮き浮き
とした表情で話し込んでいます。休憩所の下は下界で暗く、だんだん日が落ちて来
て空が面白い色になってきました。
すっかり暗くなってもこれから登る人なのか、地面に仰向けになって星を見てい
るカップルがいます。踏んづけそうになる、と言ったら女の方が笑っていました。
辺りは真っ暗でも山を見上げると点々と山小屋の灯りが見えます。それだけ小屋
があると言うことでしょう。
宿の人の「行ってらっしゃい」の声とともに出発する人が続々といます。隣の宿
の前では若い男性が数人元気よく「行ってらっしゃい」の声を掛けます。大抵の人
は宿で棒(金剛杖と言うらしい鈴がついて焼き印の押してある1.5m位の八角の
棒で千円位する)を買う。私は家からスキーのストックを2組持って来たし、何か
握りにくそうなので最初から買う気はなかったのですが、息子は記念になるから明
日の朝登るときに買うと言っています。
若い人のグループの中の女の子に「これから登るのですか?何時頃に頂上につく
のですか?」と聞いたら「初めてなので良く解りません。」のお答え。気安く思っ
たのか、同じグループの男の子に写真を撮って呉れとカメラを渡され、須走口5合
目の看板のある所で7,8人の団体に向けてシャッターを切った。次々にカメラを
差し出され1回300円と言ったら「いい商売してる」などと言って笑っていた。
そろそろ寝ようかと思い、部屋に戻りテレビを少し見てから、9時に明日は早い
からと電気を消したがなかなか寝付けない。結局10時に電気を付け下の食堂から
氷を貰い下のコンビニで買った缶ビールを息子と2人で飲んでいる内に11時に
なったので今度は本当に寝た。
周囲が騒がしいと思って時計を見たら午前3時40分、そろそろ起きねばと思い
息子も起こして歯磨き洗面に取りかかる。水の出は十分ではないが冷たさは格別で
ある。下に下りると、おにぎりが朝昼2食分づつ用意してある。日の出は5時頃だ
そうで、出発する人は出発している。30分ほどは森の中なので4時半前には出た
方が良いらしい。4時半過ぎに出発し平坦な森の中を30分ほど歩くと森を抜けて
視界が開けるとともに、東の空も赤くなってきた。
この登り口は東なので山頂の反対側から日が昇りよく見える。みんな歓声を上げな
がら盛んにシャッターを切る。ラテン系のグループもいる。こんなに外国人が多い
とは思わなかった。「フジヤマ・ゲイシャ」はちと古いかもしれないが外国人にも
山好きの人が多いということだろう。長袖の人もいるが半袖でも歩いている内に暑
くなるので半袖でも大丈夫だ。息子は丈の長い薄手のヤッケを着ていたが、やがて
暑くなり脱いで腰に巻き付けていた。気温は15度くらいか。天気はよさそう
だ。と言っても雲の上だから当たり前か。雨が降るとするともっと上に雲が湧くと
言うことなのだろう。ご来光を十分堪能し出発する。同じ宿に泊まった家族連れ
(夫婦に男女子供二人)もいる。おじいさんから孫までの一家もいる。おじいさん
はヘッドランプを付け長袖のヤッケを着ている。若者の一団もいる。
歩いている内にどんどん追い越して行く。別に早い訳ではないが、子供連れが多
いのでペースは遅くなるのだろう。
すっかり明け切ったが、下に見える雲は多く、それがまた素晴らしく、昔良く飛行
機の窓から雲を見て飽きなっかたことを思い出す。雲が無いと伊豆半島や駿河湾が
良く見えるのだろうが雲もまた素晴らしいものだ。
その内雲を見るのにも飽きてきて登りに精を出すが、ゆっくり目のペースのせい
かさして疲れは感じない。息子はどんどん先にゆく。先に見える息子の写真を撮
る。金剛杖についてきた鈴をはずして掛けるお地蔵さんもある。上を見ると次の小
屋がすぐのように見える。短パンにサンダルで下りてくる若者が数人いる。リュッ
クも背負わず荷物は銀のロールだけ。寝てきたのだろうか。砂走りを下りないで
登った道を下りてくるとサンダルでも間に合うことは間に合う。東南アジア系のグ
ループもサンダルで降りてくる。
やがて最初の小屋(6合目?)でトイレを借りる。200円だ。白木で作った個
室がずらっと並んでいてすごく綺麗で感激する。英語で綺麗に使うように注意書き
もある。小屋の人が携帯電話で高校生が下りの道を間違えた話をしていた。登り口
が幾つもあるから(吉田口、須走口、御殿場口、富士宮口等)間違えるのか。少し
休んで出発する。5時半頃か。上を見ると次の小屋が見える。次々に砦があるよう
で目標がはっきりして単調さを感じる暇がない。両手にストックを持ち、足を垂直
に上げて踵からおろしゆっくり踏みしめて歩く。焦りはない。息子は大部先を行っ
ていて見えない。やがて次の小屋に着く。トイレに入り、汚物を流すためのノズル
から出る水で顔や手を洗う。気持ちが良い。団体さんが出発(下山)のための点呼
をしていた。リーダーが「自分より先には絶対に行かないで下さい」と念をおして
いた。小屋の主人が「マスクは必需品です。これから先は売店はありません。飲み
物の用意を」と商魂逞しく大声を張り上げていた。こちらは登りなのだが釣られて
水筒の飲み物も少なくなって来たので買った。500mlで500円。下界の5倍
の値段である。因みに頂上ではカップヌードルが700円で、食べたかったが止め
た。荷物はブルドーザーで上げていた。重機が通れる道があるからいい。
ベトナム人の若者のグループが休んでいたそばで少し休みチョコレートやナッツ
を食べ水分も補給した。
その内息子が眠いと言いだした。昨晩は1時間位しか眠れなかったらしく少しこ
こで寝ていくと言っている。どうせなら小屋の中でと思って聞いたら四千円だそう
である。千円位ならと思っていたので止めた。息子はどこか外の適当な所を探して
横になるらしい。小屋の前のベンチに座っていると、子供がザックをベンチの隙間
から落とし斜面を転がり落ちて行く。帽子やらゴミやらも大層転がっていて途中の
土止めの所に溜まっている。子供のお父さんが小屋の人に頼んだのだろう、小屋の
若いお兄さんがベンチを超え90度の斜面に垂直にぶら下がっている一本梯子(鉄
の棒の両側に足を乗せるところがついているもの)を下りてザックを取りに行って
くれる。この若者が相撲取りのような体でふうふう言いながらまた戻ってきた。子
供のお父さんが若者にお礼を言っている。自分で下りていっても取れそうな気もす
るがどうだろうか。
1時間程も休んだろうか、息子は登山道の左端にいて大して眠れなかったよう
だ。出発したが今度は息子が遅れだした。最初の飛ばしすぎと昨日の寝不足のせい
だろう。良くあることだ。気にせずどんどん登る。団体さんはだいたいゆっくりめ
のペースなので次々に追い越して行く。後ろから若い欧米人の大柄の男性2人連れ
が短パンですごいスピードで登ってくる。このままでは直ぐに越されそうだ思って
いると、大部近づいてきたところで彼らも休んだ。もう心臓がばくばくだと言って
いる髪の長い無精ひげを生やした若者もいる。あちこちに帽子やら軍手やらタオル
やらが落ちている。これだけの人が出ているとごみもさぞ出ることでしょう。
時々左の膝が痛くなることがあるが少し休むと回復する。上に見える小屋が九合
目かと思いながら、最後の踏ん張りと、一歩一歩進むが辛くなり休もうかと考えて
いると、直ぐ後ろを息をハーハー言わせながらついて来る人がいる。その人に追わ
れるような形で休まずに鳥居の所に着いてしまった。九合目ではなくここは山頂な
のだ。息子の姿は全然見えない。大部遅れているようだ。とその時、後ろから声を
掛けて来る人がいて私の後ろにくっついて来た人であった。千葉の方から2人で来
ていて連れはまだ来ないらしい。息がかなりはずんでいる。私は比較的平静なので
「大部ベテランですね。タフですね。」などと誉められる。彼は初めてらしい。売
店やら食堂やらの前は人が一杯いる。どこにも寄らずにどんどん先に行く。郵便局
があったり、有料トイレがあったり建物の数も相当なものだ。その内に火口が見え
てきた。岩手山で見ているのでさほど感激はしない。火口の美しさは岩手山の方が
上ではないか。火口の向こう側の一段と高い所にドームが見える。あれが新田次郎
が小説にも書いた富士山測候所か。ドームへ繋がる結構急な斜面を登っている人が
見える。火口を右に、下界を左に見てドーム目指して進む。途中で電波関係だか気
象関係だかの人の慰霊碑が建っている。左は眺望が開け雲が少しあるが伊豆半島や
駿河湾が一望出来る。ドームへの最後の登りは砂地で、左側(海側)にロープが
張ってあり、みんなそのロープを頼りにゆっくりと辛そうに登って行く。当方はス
トック2本でロープも使わずどんどん追い越していく。やがて二等三角点の立派な
石盤があり、良くわからないが計測方法が世界測地系へ変更されたことにより富士
山山頂の緯度・経度が変わったと記されている。その石盤の隣に、「日本最高峰富
士山山頂三千七百七十六メートル」と刻まれている石柱に次々に人が立って撮影し
ている。混んでいるので石柱と火口を左に見て鉄の階段を上って行くと富士山気象
台の展望台に出る。気象台は今は無人でデータを送信しているようだ。
どこかの高専の生徒がビデオカメラとマイクを持って高校生位の男の子に取材し
ている。
気象レーダーから下りて来て 、日本最高峰の石柱のあたりまで戻った所で下から
来た息子と出会う。少し下りた所の岩に腰掛け二人で握り飯を食う。11時半くら
いか。途中大部休んだので、休まなければ10時半には着いたのではないか。そう
すると約6時間ということになる。目の前の砂の下り坂を恐る恐る下り
ていく団体さんがいる。その後を若者が踵から先に砂地に踏みだしどんどん下りて
いく。我々も下りていく。平坦になった所を少し行った所で反対方向から来た人に
頂上へ行く道を聞かれる。息子がどこか適当な所で寝ると言うので、自分は売店の
前のベンチがたくさん並んでいる見晴らしの良い所で大の字になる。左の目の前に
は若い欧米人の男女が座っている。右側の前には若い男達が大騒ぎをしながら登っ
て来た道すがらについて話している。眠くもならないので横になったり立ち上がっ
て見たり、富士山の頂上でこんなに広いスペースの休憩所(幅の広いベンチのよう
なもの)を占領できるものかと不思議な気もする。休憩所に入ると五千円も取られ
るだろう。
休憩も飽きて来たので、息子を捜しに行ったら少し離れた所に土手を背にして
座っていたので、眠れたかと聞くと、まともに直射日光を受ける場所だったので全
然眠れなかったと言っていた。
午後1時半頃だろうか、降りることにした。だらだらと降りていくうちに砂埃を
上げて降りて行く人たちが見えた。これが例の砂走りかと思ったら後になって解る
のだがもっと先にあるのが本当の砂走りだった。砂の下りを降りて行くには踵から
足を降ろしてブレーキを掛けながら行けば良いのだが、勢いに任せて足をあまり上
げないで砂をかき分ける用にしていく人若い人がいる。擦り足で行く分周囲に、特
に後から来る人に砂埃を上げて迷惑を掛けることになるので、十分足を上げ踵から
ゆっくりと足をおろす。スピードはでないが砂埃を上げたくないのでこの方法で歩
く。やがて、登る時に最初にトイレを借りた小屋に着く。登って来た時の印象とは
随分違う。息子は先にどんどん降りてきていたので小屋で落ち合った。少し休憩し
て下って行くと砂走りだ。御殿場口の方には大砂走りというのがあるそうだが、こ
ののは幅7〜8m位か。始まりの所で人がたむろしている。かまわずどんどん降り
ていく。どんどん追い抜いて行くが当方はスパッツもマスクも用意していない。や
がて右足の内側の甲のあたりに小石が入りだした。一つ二つのうちはよいが溜まっ
て行くと踏ん張った時に痛くなる。通路を避けて靴を脱ぎ小石を出す。また、歩き
出すが少し経つと同じことが起きる。今度は余分に持ってきたタオルで靴の足首の
部分を覆って小石が入らないようにした。また、同じくタオルで口も覆った。後で
聞いたら息子は普通のスポーツシューズで来たのだが、石が入ってもそのままで降
りたようだ。シューズに余裕があったのでそれ程痛くなかったのか。もう終わるの
かと思いながらなかなか終わらない結構長い砂道の下りでやがて下に山中湖が見え
てきた。普通のシューズを履きスパッツも何も着けないで平気で降りていく韓国人
の男性もいた。砂走りが終わると休憩所があり息子は既にそこで待っていた。登り
の時は睡眠不足だとか言って遅れたが、下りは勢いに任せて早かったようだ。飲み
物を飲んでいると、休憩所の親爺が眼下の山々について説明していたが少しも覚え
ていない。思い出せるのは箱根位か。
あと30分位で5合目に着くと茶店の親爺に言われ林の中を歩くが、若い女性の
3人組の内の一人が両側から支えられてやっと歩いている。最後の30分は意外と
長く感じられたが、どうにか前の日に泊まった宿に到着した。2階の洗面所で手足
を洗わせて貰い、着替えてから預かっていた荷物を持ちお礼を言ってから駐車場に
向かった。昨日ここに着いた時の感激が思い出された。駐車場は混雑している
が、登るためではなくただ車で山容を見に来るだけの人も多いのだろう。駐車場の
一角にロープが張られていて明日からのマイカー規制によるバスの駐車場を確保し
ていた。これからの週末(8月17日〜19日、今日は火曜日)はさぞ混み合うの
だろう。天候にも恵まれ丁度良い時期に来たと思った。登り下りの道が写真で見る
ような混雑をしているとも思わなかったし、スパッツもマスクも用意しなかったが
それなりに間に合ったし、終わり良ければ全て良しと言うところか。昨日あざみラ
インを車で登って来た時には車は混雑で動かないし天気は悪いしもう帰ろうかなど
とも思ったが。進めば何とかなるものだ。
また、機会があれば別の登山口からでも登ろうかなどと考えながら帰途につい
た。